JASS ベトナム事務所ホームページ


15年7月31日小山道夫「火炎樹日記」-日本語学校視察

終日「小雨」。この数日、太陽が出ない。少し寒気がする。

午後5時、室外気温「29度」、湿度「80%」

午前7時過ぎ、朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦の手打ちうどん)、ヨーグルト

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午前中、バオミンさんと電話で打ち合わせ。

JASSの今後の「あり方」について考察する。

午前11時半、昼食。

「野菜炒め」「大根と海老の煮物」「カボチャのスープ」「バナナ」

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半分ほど食し、残りを夕食とする。

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午後1時間ほど昼寝。

検温「37度3分」。

読書「流(りゅう)」(東山彰良著;講談社)・「直木賞受賞作品」

第2次世界大戦後の「台湾」が舞台。本省人(台湾人)、外省人(中国本土から来た人)

、国共内戦。将介石率いる「国民党」が台湾に逃れる。もともと台湾にいる「台湾人(本省人)

と国共内戦で敗北し、台湾に逃れてきた蒋介石軍との確執が初めに詳述されている。

第2次世界大戦についての基礎知識がないと本書は理解できない。

読んでいて「面白い本」である。娯楽性もあるが、今日的な世界政治にも関わる

問題を背景にかなり「壮大」な話ではある。引き込まれる。

著者の記述にかなりの「違和感」を感ずる。日本人だったら、こんなに「大げさに書かず、

さらっと流して書くのに」と思われる記述が多々出てくる。

午後4時過ぎ、「JASS日本語学校」を参観。

新任教師の「向井先生」が初級クラスを担当。

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元気に日本語教育を進めていてくれる様子を見て「安心」した。

大学生である。フエの寒暖差の激しい気候に負けずにフエの経験、

日本語学校での体験を将来の人生に役立てて欲しい。

中級クラスを参観。生徒はまだ会社の仕事が終わらず、遅刻している。

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午後5時停電。室内が暗くなり、インターネットや読書などができなきなった。

しばらく、蒸し暑い部屋で「謹慎生活」のような格好で部屋で静かに座っている。

1時間ほどで電気がつく。


15年7月30日・小山道夫「火炎樹日記」・子どもの家へ

終日雨。気温が急激に下がる。

昼過ぎに検温。37度7分。体が熱っぽい。鼻水が出る。

軽く風邪を引いたようだ。気温の変動が大きいので、体がついて

行けない。

午前7時過ぎ、朝食。「ブンボー・フエ(牛肉米面)」・野菜・ヨーグルト

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午前中、バオミンさんと電話で打ち合わせ。

子どもの家のスタッフの給料と「年金」「医療保険」「失業保険」支払いの件。

風邪を引いたようだ。洟水と悪寒がする。検温「37度7分」。熱があるようだ。

ベッドで休む。インターネットで「古今亭志ん朝」の『明烏」・「こんにゃく問答」

などを聞く。

午前11時。昼食を摂る。半分ほど食し、半分は夕食用に残す。

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「豚肉と厚揚げの甘辛煮」、「茹でたおくら」「川野菜・エビ入りスープ」

くだもの。

午後2時までベッドに横になり、昼寝。今日は体調がかなり良くない。

午後2時半。雨の中、バオミンさんがオートバイで宿舎まで迎えに来てくれた。

午前中、電話で打ち合わせをした「子どもの家」スタッフの「社会保険」等の

支払いについて、「子どもの家」のセンさんと打ち合わせをする。

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2015年8月にベトナム政府の決定により労働者の「最低賃金制度」が

発足する。地域の物価なども考慮し、地域別の「最低賃金制度」である。

フエなどの地域の労働者の「最低賃金」は『296万ドン』。ドルベースで

『約150ドル』。日本円で『18000円」である。

現在、セン委員長は、218ドル、ロック寮長は152ドルであり、この二人は

政府決定の「最低賃金制」の範囲内である。その他の「子どもの家」の

スタッフは「130ドル」、警備員は「90ドル」である。

最低賃金制度を決めたベトナム政府は、以下の措置も取った。

①社会保険制度の整備確立(年金)

・雇用主(JASS)が18%負担

・労働者→8%負担。

②医療保険

・雇用主(JASS) 3%負担

・労働者→1、5%負担

③失業保険

・雇用主(JASS) 1%負担

・労働者→1%

以上のようにベトナム政府は決定を下した。

しかし、実際に全ての労働者が上記3つの社会保険の恩恵が受けられるのか

というと、相当「怪しい」のが現状である。当面、外国系資本などが入っている

企業・NGOなど『お金のありそうな部署」から3つの社会保険(年金・医療・失業)

を進めていく方針と私は受け取った。今のベトナムの一般的な働く人たちには

上記社会保険費用の個人負担は難しいものと思われる。

とりあえず、『お金のありそうな外国企業・NGO・国営企業』等、資産がありそうな

部分から先発発進か?

JASSとしては、最低賃金制度に照らし、以下の負担が必要となる。

①セン委員長・ロック寮長以外の「子どもの家」スタッフの給料の値上げ。

● 一人毎月「20ドル」の賃上げが必要。

②スタッフ全員の年金の18%  医療保険の3パーセント  失業保険の1%

①②の予算はまだ立てていないが、相当の金額をJASSとして負担しなければ

ならない。

雨の中、バオミンさんのオートバイの後ろにのり帰宅する。オートバイの後ろに

乗りながら、JASSに「支払い能力はあるのか?」心配になっている。

しかし、これは「子どもの家」を組織し運営している以上「致し方ない」支出である。

これが「海外支援」の現実ではある。この23年間、jこの種の問題が常に起こり、

なんとか「辻褄を合わせて来た」が、現在JASSは「超金欠病」に陥っている。

JASSベトナム事務所のべトナム人を中心に、日本の支援者の「知恵と力と金力」

をお借りし、「子どもの家」にいる40人の子どもたちのために何とか努力し、

頑張らなければならない。


15年7月29日・小山道夫「火炎樹日記」国際基督教大高校日本へ帰国

終日、降ったり止んだり。天候不順。

この2週間程、毎朝体温測定をしているが、大体「37度1分~4分」の間。

体のどこかが「狂って」いるのだろうか? 常に体がだるく、横になっていないと

体がもたない。

午前7時半朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉とキャッサバの手打ちうどん)

と「茹でキャベツ」。ヨーグルト。

大体、1週間の朝食のメニューが「ワンパターン化」して来た。

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この間の疲れが出た。午前中、横になり「読書」

「自分の壁」(養老孟司著:新潮新書)読了。

頷ける部分と意見の違う部分がある。著者養老氏は、1970年の

『70安保闘争』時に東大医学部の先生になりたての頃だった。

この闘争で「自分の勉強ができなかった」とこぼしていながら、

70安保闘争』『大学紛争』を通して、色々な体験や色々な人々の

人生の身の振り方を学んだようだ。

養老氏の基本的な姿勢は「世間・物事」に対して、一歩引き下がり、

全てのことを「本当にそうなのか?」という批判的な目で見ている。

養老氏の言うことに同意できる部分多々あるが、同時に「そうした見方を

していては、世の中に、正義がなくなるよ」と思う部分もある。

政治を語らい「政治屋」でもある。『昆虫・虫取り』という趣味と実益を

兼ねての行動は私のような愚鈍な人間には「新しい見方」を与えるという

点は確かにある。

正午、昼食を摂る。

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半分ちょっとを食し、残りを夕食用にとって置く。

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国際基督教大高等学校は、午前中、世界遺産の『グエン王朝の王宮」・

ティエンムー寺の参観。ソン君が案内。

昼食を摂り、午後、フエ空港へ。更にホーチミン空港へ。

夕方、フエ空港にいるピースインツアーの添乗員さんに電話。

「予定通り」に進んでいるとのこと。

今日はホーチミン空港へ泊まり、明日、「戦争証跡博物館等」を参観し、

日本へ帰国。皆さんの無事帰国を祈る。

昨日、IT業者に部屋のパソコンのインターネット接続等を直してもらった。

インターネット接続はお陰様で直った。しかし、パソコン全体を日本語仕様から

べトナム語仕様に転換してしまった。その他、様々機能(文字の短縮・メール

アドレス一覧)を全て削除してしまった。インターネットは繋がったが、

『JASSベトナム事務所HP」を書くのに大変苦労している。

今日は、1日かけて「一昨日」「昨日」の「JASSべトナムHP」の

書き込みと写真添付を行った。まだ、このブログに慣れていないので、

書き込み・写真挿入など結構面倒くさい。しかし、今までの火炎樹日記

よりは書き込みが楽である。

平均して毎日「140回程のクリック」がある。多い日で288回。

できるだけ多くの皆さんに読んで頂きたい。

先日のベトナム事務所員会議でも、各所員の皆さんも「投稿」するよう

訴えた。

夕方から読書。「流(りゅう)」東山彰良(ひがしやま・あきら)著;講談社

先日発表された「直木賞」受賞作品である。多くの皆さんが「芥川賞受賞作品」に

注目しすぎているので本書を読んでみる。

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著者は1968年生まれの台湾国籍。5歳まで台湾で過ごし、9歳で日本へ

移る。著書の裏書きにある本人の履歴である。

冒頭部分を読んだ印象では、「船戸与一」の「満州国演義」を彷彿させる

筆致である。

朝起きると左足の親指付近が痛い。指を曲げると痛い。

何となく嫌な予感。「痛風か?」


15年7月28日「ナムドン」山岳少数民族の皆さんと交流

一昨日からインターネットが繋がらなくなる。2日間、メールも読まなかった。

今日は多少「小雨が降りそう」な怪しい天気。そのお陰で「気温が低く」

過ごし易い。

午前7時過ぎ、朝食。「ブンボー・フエ」(牛肉入り米面。フエ名物)

ヨーグルト、茹でたもやし。

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料理のTUOIさんは、3歳のお子さんずれ。

私の食事中に女児の朝食の世話をする。私が朝食を終わると

女児を「保育園」に預けに行く。そして、その足で昼食の食材等を

市場で買出し、昼食兼夕食を作り、11時ごろ帰宅する。

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午前10時、国際基督教高等学校(20人+引率の先生+添乗員)の

皆さんとバスで「ナムドン山岳地帯」の「カトゥー族」の皆さんとの

交流にでかける。ホテルへ出迎えに行く。

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バスにゆられて2時間弱。ナムドン山岳地帯の中腹に到着。

バスの中でベトナムの「多民族国家」の中での「少数民族問題」や、

1960年代の終わりか、70年代の初めに『安部首相の大叔父』である

当時の首相「佐藤栄作氏」が、国会で「日本は単一民族である」と発言している

ことを紹介。日本が「多民族国家」であり、琉球とアイヌの人々は、長い間の

差別や政府等の蔑視の中で生きてきた歴史を話す。現在もであるが。

沖縄問題については、琉球王朝の歴史、1600年代の初頭、薩摩藩の

事実上の琉球王朝侵略から始まり、明治になり「琉球王朝」を侵略し、

日本国に併合(日本国側は「琉球処分」といった)した歴史を話す。

現在も在日米軍の70%以上が沖縄に集中している実態や事実上

アメリカは沖縄では「治外法権」となっており、植民地になっていると

沖縄の人々は言っている(琉球独立論)ことなどを紹介。

アイヌ人については、初代「征夷大将軍 坂上田村麻呂」からのアイヌ討伐。

明治政府になり1899年「北海道旧土人保護法」が制定され、

アイヌ人は戸籍には「旧土人」と書かれていたことを紹介。

1997年「アイヌ新法」が制定され、旧土人保護法から解放。

ベトナムの多民族問題は事実上、(ベト族=経族)が少数民族を支配している

実態を知り、自らの日本での少数民族問題も知って欲しいと話す。

正午、ナムドン山岳地帯の入り口に到着。昼食を摂る。

なかなか「美味しいベトナム料理」であった。

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午後1時半過ぎ、ナムドン山岳地帯「カトゥー族」の居住区「トゥオンロー村」

に到着。

カトゥー族の皆さんが民族楽器で歓迎。

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支援物資を持ってカトゥー族の集会場へ。

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引率の先生は、このツアー期間中「大奮闘」されていた。

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村の高床式の集会場で会合。村長さんの歓迎の挨拶。

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国際基督教大高等学校の生徒さんたちは、高床式の集会場に座り、

交流会を行う。

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村の文化部長が「カトゥー族」の紹介をする

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ベトナムは現在「夏休み」。たくさんの子どもたちも参集。

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日本側から支援物資を贈呈

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カトゥー族若者による皆さんの歓迎の踊り

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カトゥー族の若者と一緒に「カトゥー族の伝統踊り」を踊る。

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続いて、日本側の出し物。集会場の前の庭でて「そうらん節」を踊る。

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カトゥー族の皆さんの招待で民族料理の会食をする。

午後3時半過ぎ、交流会を終了する。

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参加高校生は、今回のカトゥー族の皆さんとの交流会をどう感じただろうか?

約1時間半でフエ市内へ。2時間半ほどホテルで休息し、フエ滞在最後の

夕食を摂る。

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午後8時、夕食会は終了。明日は、いよいよ日本へ帰国。

体調に気をつけて、帰国して欲しい。


15年7月27日小山道夫「火炎樹日記」・グエン・フエ高校と交流

曇り 気候不順

新任日本語教師の向井先生が新ベトナム事務所へ。

ベトナム事務所員と顔合わせ。

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国際基督教大学高等学校の生徒さんは、引率の先生と共に

「静岡・フエ青年会館」へ。

フエ省屈指の名門進学校「グエン・フエ高校」の生徒と交流を行う。

「静岡・フエ青年交流会館」に到着した「国際基督教大高等学校」の生徒さんたち

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グエン・フエ高校生との交流は、英語で行った。

国際基督教大学高等学校の生徒の69%は「帰国子女」。

英語は堪能である。高校1年生から3年生までが参加。

グエン・フエ高校は、学校から選抜された「英語得意生徒」が

参加。

はじめに私の方から ①自己紹介 ②相手の国についての質問

③興味のあるもの等質問・応答  ④最終的な討論テーマは

「日越の文化」について話し合うことを伝える。

日越の高校生が果たして「自国の文化」について、どの程度の

知識と理解があるのかは不明であるが、

自分自身が「自国の歴史と文化」につて、相手国との討論を

通して、「更に学習しなければならない」との気持ちを持って

もらえれば有難いと思っている。

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ピースインツアー添乗員さんとグエンフエ高校生代表

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両校の交流会の最後に各校が「歌・踊り」などで自国の文化を紹介

グエンフエ高校は、最初に「小さな世界」をベトナム語で歌う。

続いて「ホーチミン共産青年同盟」の若者が歌う「手をつなごう」。

内容は、世界の若者は「手をつなぎ」「団結しよう・・・・」。

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国際基督教大高等学校は、「校歌(英語)」を歌い、日本語で「ふるさと」

を歌う。

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引き続き「国際基督教大学高等学校」は、得意に「ソーラン節」を

全員で踊る。見ていてなかなか「壮観」で「迫力」のある踊り方を

をしていた。

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見ていた「グエンフエ高校」からは大きな拍手が起こった。

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交流会の最後に両校参加者・引率の先生全員で「記念撮影」

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こうして日越の若者が交流することは、大きな意味のあることだ。

本や文献・写真だけでお互いの国を知ることも大事だが、可能なら

こうして「直接会って」「英語で両国の若者が思っていること」を伝え合い

相互理解ができることは素晴らしいことである。「百万遍『世界の平和』を

唱えるよりも、実態のある平和交流だ」と思っている。

今日の世界情勢・特に東アジア情勢は、下手をすれば「戦争へ発展する萌芽」

を内包している。日越の若者の直接交流は両国の将来へ向けて大きな意義の

ある交流だったと思っている。両国の若者がこうした交流を通しして、アジアや

世界の平和について深く考える機会ができたことを心から喜びたい。

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両校の交流を終え、宿舎へ帰り昼食を取る。

元日本料理店長の「TUOI(トゥオイ)さん」が昼食を多めに作ってくれた。

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半分昼食と食べ、半分は「夕食」として残す。

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食後、体がだるいので昼寝。

昼寝をしながら読書「自分の壁」(養老孟司著(新潮新書)


15年7月26日・小山道夫「火炎樹日記」新日本語教師赴任:国際基督教大高等学校は「子どもの家」で昼食作り・ペンキ塗り

午前中、薄曇・蒸し暑い。午後雨。

午前9時、電動バイクで「子どもの家」へ。電動バイクの調子が悪い。

国際基督教大学高等学校(20人)の生徒は、「子どもの家」で

子どもたちと交流。

ピースインツアーの添乗員さんと

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日本の「100円ショップ」で買ってきた「ゴム風船」に水をいれ

子どもたちとぶつけ合う遊びをする。結構、楽しそうにぶつけ合っていた。

多くの日本の子どもたちは、こうした遊びをする機会がほとんど

なくなっているわが日本社会・学校教育の現場である。

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子どもたちと遊んだ後、子どもたちと一緒に昼食作り。

海の魚

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エビ

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豚肉

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トマト

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子どもたちと一緒の昼食作り(スープ用の野菜を切る)

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正午前、子どもたちと一緒に作った昼食、みんなで摂る。

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昼食後、一度ホテルへ帰り休息。

午後の予定は、フエ近郊の「天安山」で子どもたちと遊ぶ予定だったが

雨が降り出した。急遽、明日の午後の活動予定だった「子どもの家」の

「ペンキ塗り」を子どもたちと一緒に行う。

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「子どもの家」は、創立20年になろうとしている。こまめに「手入れ」をしないと

直ぐに痛んでしまう。特にベトナムは、夏は暑く「強い日照り」があり、冬の

雨期は「毎日雨が降る」。「子どもの家」の宿舎を清潔にきちんと維持するのも

一つの大きな「闘い」なのである。特に1階・2階の「回り廊下」の手すりは、

雨で直ぐに「カビ」てしまい、錆びて『朽ちてしまう」。周り廊下の鉄の手すりが

錆びて壊れると『非常に危険』である。

国際基督教大学高等学校の生徒さんは、積極的に『軍手」「手袋」をはめて

「手すり」のペンキ塗りに挑戦してくれた。気温38度、湿度80%近い気象条件

の中での作業は日本の若者には、経験もなく、大変だったと思う。直ぐに「エヤコン」

の部屋に入る訳にもいかない。「子どもの家」には、エヤコンの部屋は、1室だけ

(保健室)である。

最初にペンキを落とす、その際にほこりが出る。

ペンキに入っているシンナーも体に悪いので、皆さんには、マスクをしてもらった。

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午後4時半、「子どもの家」を退去し、ホテルへ戻り一時休息。

フエ市は非常に蒸し暑い。常に休息をとらないと体の調子を崩す。

午後5時。ソン君が宿舎に来てくれる。壊れた電動バイクをチェック。

「充電器」が壊れていたので、業者に持って行ってくれる。

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午後6時。今日、午後5時頃「バオミン・ホテル」に到着した新任の

日本語教師「向井先生」を訪ねて「バオミン・ホテル」へ。

部屋などの問題をチェック。その足で「夕食」を食べに行く。

フエの大衆食堂での夕食会にリー君も誘う。

リー君は、何故か知らないが新しい彼女なのかどうか分からないが

友達の縫製ミシンをしている女性を連れてくる。

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新任日本語教師の向井先生と

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午後8時、夕食歓迎会終了。


15年7月25日小山道夫・「火炎樹日記」国際基督教大学高等学校

終日曇り・高湿度(蒸し暑く、常時気分が悪い)

午前6時起床。

午前7時朝食。薄味・出汁抜きの「ブンボー・フエ」。

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午前8時半、宿舎を出て「新JASSベトナム事務所」へ。

午前9時半から「静岡フエ青年交流会館」にある「JASS新事務所」

で「国際基督教大高等学校」の講演会をする予定だった。

直前になって、新事務所の隣りにある「フエ市文化会館」でフエ市内の

教員の大きな学習会がある。たくさんの教員が参加するので「文化会館」

での会議の音がうるさく、同時に「新事務所前の庭にたくさんのオートバイが

駐車され、国際基督教大の講演会をするのは無理だと思う、「子どもの家」での

講演会に変更したとの連絡があった。バオミンさんの意見を受け入れ、「子どもの家」

で講演会をすることにしたが、一応、静岡・フエ青年交流会館・JASSベトナム新

事務所に行って見る。

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確かに数百台のオートバイが「JASSベトナム新事務所前」に

駐車してあった。これでは、うるさくて私の講演会は出来ない。

JASSベトナム事務所新事務所では、スタッフが真面目に仕事を

していた。

日本語主任「フーン先生」。真面目に日本語教育をしている。

能力が高く、日本語学校を安心して任せられる。

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アンさん

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JASS観光のソン君

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JASSベトナム委員長のバオミンさん。今後のJASSベトナムは

バオミンさんの肩にかかっている。

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ベトナム事務所の財政の実権を握っているハンさん

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午前9時、「子どもの家」へ。「子どもの家」の現状を視察。

新しく「子どもの家」に入所した子どもたちもたくさんいた。

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午前9時半から午前10時半までの1時間、「ベトナムの歴史など」

を国際基督教大高等学校の生徒さんに話す。

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「子どもの家」での講演会を終わり、電動バイクで宿舎へ帰り昼食。

元日本料理店長のTUOIさんが作っておいてくれた。

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昼食後、1時間程昼寝。

午後2時過ぎ、宿舎を出て「子どもの家」へ。

「子どもの家」では、ソン君が国際基督教大学高等学校の生徒さんに

「子どもの家」の施設紹介をする。

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午後3時から午後4時まで「JASSのボランティア活動」について1時間

国際基督教大学高等学校の生徒さん20人に話す。

その後、「子どもの家」主催の歓迎会。

最初に「子どもの家」のセン運営委員長の歓迎の挨拶

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その後、「子どもの家」の子どもたちの歓迎の歌と踊り。

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その後、「子どもの家」の子どもたちと交流。

国際基督教大高等学校は「そーらん節」の踊りを披露。

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「子どもの家」の庭で子どもたちと交流。

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国際基督教大高等学校から「子どもの家」の子どもたちにお土産贈呈。

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午後5時前、「子どもの家」を後にする。